由緒沿革


光孝天皇の御代、仁和2年正月16日、菅原道真公が御歳42歳のときに讃岐の国司に任ぜられました。
同年4月御来任、阿野南条郡滝宮の官舎に住まわれました。現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。
 
菅公はご来任間もなく国中を巡視し、つぶさに民の疾苦を問い、国民を撫育して大いに実績をあげ、
教育や勧業その他にわたって仁政を施されました。特に、教育には意を注がれ、聖廟(せいびょう)を建て、
孔子の像を祀って子弟を教育されました。
字川西喜来(あざかわにしきらい(地名))の孔聖神社、現在の権現神社はその遺跡に建てられたものであります。
 
宇多天皇の仁和4年には、麦も枯れ、田植も出来ぬ有様で国民の困窮は記語に絶するものがあったと伝えられています。
この時菅公はこの人民の苦しみを救うため、自ら身命を賭して城山に登り断食七日七夜、一身を神の捧げて
祈雨の願文を奏して人民の困苦を救済することを祈り給いました。すると菅公の祈りが通じて待望の雨が
三日三晩降り続きました。慈雨に喜ぶ国民は老若男女を問わず、国司の邸に郡集し歓喜の余り踊り舞いつつ、
菅公に感謝を表したそうです。
 
寛平元年7月の頃国内に疫病流行した際には、菅公自ら病家を訪ねて医薬につかせ、また、一方般若心経を手写しして
龍燈院に納め、息災護摩を修し、防疫に尽くされたので効験著しく、人民はことごとく菅公の仁政に感涙したと伝えられて
います。公任満ちて菅公はご帰京にのぞみ、国民は皆父母を慕う如く別れを惜しみました。
 
慶安元年、松平家初代頼重公のとき、菅公の功績を讃えて、毎年社前に執行する念仏踊りは大変貴重な神事として
非常に尊敬し、十分に保護する必要があるとして高札(こうさつ)をだされ、最も厳粛に踊りを執行されました。
現在、滝宮念仏踊は国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
 
その後数百年を経過し、社殿が著しく腐敗するのに及んで桜町天皇の元文6年、社殿の修復を行い、
さらに仁孝天皇の文政5年、崇敬会の有志の者より寄進を受け本殿、拝殿、玉垣等を始め諸建物の増改築を行いました。
その美しさは当国無比といわれましたが、明治6年、社殿は西讃の暴徒により焼失。当時は西讃の暴徒が蜂起(ほうき)
してあちこちの役所を焼去しており、当時天満宮の西隣にあった龍燈院の一部を役場として使用していたため
同年6月28日、類焼の厄に遭い荘麗を誇った社殿は惜しくもその一切を焼失しました。
明治21年に再び四方崇敬者の寄進によって再建され、現在の社殿はこの時のものであります。
大正10年、敬神家の寄進によりご修繕を施し、昭和52年、菅公1075年忌祭の際には記念事業として
崇敬者の寄進により、宝物館、御神門を創建しました。

  

念仏おどり写真   うそかえ祭写真
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